凡例畠山 政長
時代室町時代後期 - 戦国時代前期
生誕嘉吉2年(1442年)
死没明応2年閏4月25日(1493年6月9日)
別名弥二郎、次郎(通称)
戒名実隆寺殿
墓所正覚寺(大阪府大阪市平野区)
官位従四位下・尾張守、弾正少弼、左衛門督
幕府室町幕府管領、河内国・紀伊国・越中国・山城国守護
主君足利義政→義尚→義材
氏族畠山氏(河内畠山氏→尾州家)
父母父:畠山持富
兄弟弥三郎(政久・義富)、政長、某、某
妻京極持清の娘
子尚順(尚慶)
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畠山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏の人物。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚慶)。
お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。 畠山持富の次男として誕生。政久(弥三郎)の弟。 政長の父持富は、嫡子のない兄(政長の伯父)の畠山持国の嗣子に予定されていた。しかし、持国は庶子の義就を召し出して跡を嗣がせようとしたため、畠山家中に内紛が生じた。持富は間もなく没したが、政長の兄・弥三郎が跡を嗣いで義就と争った。 長禄3年(1459年)、弥三郎も死去したため、政長は弥三郎派の遊佐長直・神保長誠・成身院光宣らの支持を受けて弥三郎の後継となり、義就と激しい戦いを繰り広げた。 寛正元年(1460年)9月20日、第8代将軍・足利義政の命令で失脚した義就に代わり幕府に帰参、義政より偏諱(「政」の字)の授与を受けて、政長と名乗る。 寛正元年12月19日から寛正4年(1463年)4月15日の2年半にかけて義就が籠城する河内嶽山城を包囲・陥落させ、義就の追討に功績を挙げた(嶽山城の戦い)。 寛正5年(1464年)11月13日、細川勝元(妻の従兄弟にあたる)の後任の管領に就任する。管領在任中は奥州探題大崎教兼の関東出陣を命令、勝元の依頼で伊予国人河野通春討伐を大内教弘に命じている。 寛正6年(1465年)8月、吉野に逃れていた畠山義就が奈良盆地に進出してきたが、幕府内は将軍家の家督問題などで紛糾しており、義就討伐軍を出せる状態ではなかった[1]。同年、9月21日から29日までの8日間開催された義政の春日大社下向・社参では、警固役を務めている。 文正元年(1466年)8月25日には、畠山義就は壺坂寺に陣を置いた[1]。同年9月、細川氏と山名氏の対立が強まり、山名持豊(宗全)は義就を味方に引き入れた[1]。同月、義就は河内国に侵攻し、政長方の軍を破った[1]。翌10月24日、義就は、河内国から上洛し、山名持豊の支援のもと、千本釈迦堂に陣を置いた[2]。 文正元年(1466年)の末には、将軍・義政が畠山義就の赦免を決め、これにより、応仁元年(1467年)1月8日、政長は管領を解任された(後任の管領には、山名持豊派の斯波義廉が就いた)[3]。義就は、政長に代わり、越中国、河内国、紀伊国の三ヵ国を安堵され、幕府に出仕した[3]。 追い込まれた政長は、応仁元年(1467年)1月17日、京都の自邸に火を放ち、上御霊神社に立てこもった[3]。
生涯
家督争い
畠山義就の反攻と応仁の乱
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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